あさってに向けて吐露(うつ病と出会ってからの徒然)

うつ病をきっかけに考えたこと。半生の振り返りをかねて。

タグ:うつ病

久しぶりに、かなり長い間、薄暗い気持ちの谷にはまっていた。

あらゆることをリセットしたい気持ちを持つと
死ぬことがものすごく優先順位の高い選択肢として点灯するが
選ぼうとした瞬間、それでもリセットできないものがあると理性が必死に抵抗する。 

折悪く悪天候が続いていて呼吸が重い。

今の世をきらめく名の通ったメンバーの飲み会に同席させてもらって
すごく楽しい時間を過ごしたのだけど
その目の輝きに中てられてしまったのも、今回の落ち込みのトリガーだったと思う。
深酒が掘り起こした内面のぐちゃぐちゃを整理するのに、まだもう少し時間がかかりそうだ。

就活支援をさせてもらっていた学生から
第一志望の企業の内定報告があった。
素直に、自分のことのようにうれしかった。

自分のように転職したり、辞めたりすることもある世の中で、
就職すること自体を含め、どんな企業に就職するかは大きな問題ではないと思っているけど
動機を持って、目標を達成していくために活動して成果を得る、そういう成功体験を獲得するチャンスとして
就活を捉えるならば、これを活用しない手はない。

自己肯定感の多寡はうつ病の予防、ないし回復に向けた一番のクスリだと思うし
病気にならないまでも、自分の足で立って人生を楽しんでいくために不可欠な要素だろう。

自己評価の低さとプライドの高さは悪い意味で両立する。
なまじ気がまわせて手が動く能力があると、特にこのダブルパンチを引き込みやすい。
自分が落ち込んでしまった要因はおそらくこのあたりにある。

本当の力をつけるか、鎧兜を脱ぎ去って静かに生きるか
また少しずつ、考えていきたい。


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日中のWeb会議はうまくいったので、もしかしたら
プロボノ先の将来に少し、貢献できたかもしれない。

でも、朝からずっと、もやもやが晴れない。
日記を書く意欲が、案の定少し下がってきた。

頭を抱えて沈む朝のソファからちらと息子の顔を見たとき
そこにあるのが反射的に生まれた愛想笑いではないかと思ってドキッとした。
笑顔の絶えない家庭は素敵だが、それが愛想笑いだとはつらい。

朝夕の素振りから家族の状況を、メンバーの一人として、感じているように思える時も多い。
そんなことはないのかもしれないが、不安なる。

どうしようもできないのだけど
いま抱えているのは、そういう病気であり、状況なのだ。

 

ブログネタ
ボランティア に参加中!
来週末は、ひょんなことからご縁ができたNPOに依頼され
子育てママにむけたオカリナ講習に出向く予定。

学生の留学プログラムへの出願書類の添削
起業後のクライアント候補への事業改善提案資料作成
プロボノ先の個別事業計画のブラッシュアップ
タウンミーティング投影資料の作成作業に並行して
運指表つき楽譜の作成を渋谷のコワーキングスペースで。

気分は相変わらず重いし
東急の2階から見える人ごみが
自分の何者でもない感じを引き立てて辛いのだけど

そんな中で、・・・最後に挙げた作業がいちばん楽しいと感じている。



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と、中也を引用しようとして、恥ずかしくなった。

自分のこさえた澱をあたかも外から見て卑屈になっているような
うすっぺらい動機で安易に言葉を引くべきではない。

気を抜くと身体がバラバラになりそうな感情を抱えて
でも、自分のことだけじゃない
支えてくれてる嫁さん子どもの想いを感じて

取り返さないと。

 

二時間寝ても検討通りの3手しか進んでない。
プロの将棋のスピード感は、やっぱり今の自分にはちょうど良い。

眠っているあいだに、実家に帰っていた時の夢を見た。
病気のことを失敗だと言い切る父に激高して
しばらく塞いでしまった自分を右上からの視点で見下ろしている夢。

クリニックやうつ本では「誰でも罹りうる脳の病気」として客観的にする
(ラベリング)ことで患者の平静を取り戻すことが一般的だと思うけど
今は少し、それを(父の言う意味での)失敗と捉えて反省する、
今後の対策を講じる方向に移ろうとする動きが心の中に認められる。

過去に重ねてきた悪手と向き合う作業は
万力でぎりぎりと心を絞るような作業であるし
現状を打開しようにも、次の一歩をどこに下していいか分からない。
M.エンデの自由の牢獄に閉じ込められた商人のような立場が思いやられる。

エンデの寓話は選択の自由、可能性の存在について描いたものとして
解釈される向きがあるが、そうした文脈の中では
商人の失敗はこれらの自由や可能性そのものが
自らの手の中にあると信じたことにあるとされている。

「自律的な自由」において選ぶ者には、常に不幸か、満ち足りているかのような虚勢しか残されていません。
 幸福な選択があるとすれば、それは「これから選ぶ自由」を一度「既にすべてを選んだもの」に預ける限りにおいてです。
引用は上記のリンク先から。

自分で選べることを過度に信じた自分自身を改めて、
当たり前の意味での他者への配慮と、大きな流れに身をゆだねる姿勢とを
身に着けていくべきなのではないかと思っている。




 

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